あなたの神様になりたい
だれかの神様になりたい症候群とでも呼ぶべきか、そんな衝動が小学生のある時期くらいから芽生えた。
神様というと大げさだが、もうだめだと諦めかけた人を救うようななにかを届けたいと思っていた。
分かりやすい見返りは求めていなかったが、まったく下心がなかったかと言うと怪しい。当時から自分は相当な寂しがりで、自分の存在を求めて、頼って、縋ってほしかったからだ。
小学四年生くらいからネットの世界に踏み込んだ自分は、それまで見たことも感じたこともないような他人の無気力と希死念慮に触れた。
そして、本心から向かい合って接するだれかがいればそれらの病みは取り除かれると盲信していた。
そのだれかになりたいと思った。
振り返ってみるとおこがましい。自分の病みすら制御できない人間が他人の病みを取り除くなんてできる訳がない。ましてや専門家でもない未成熟な子どもに。
ネットに氾濫する「死にたい」や「助けて」の言葉にいちいち胸を痛めた。さすがに全てを拾うことはできないので、仲良くなった子のふとした気弱な発言に注意して関わった。
結果、だれも変わることはなかったし、自分も病んだ。
いや、自分は元々病み気質だったのだろうが、とにかくだれの病みも解消されなかったのは確かだ。
本当に疑問だった。悩みは人に話して解決策を見つけられれば解消するのではないのかと。
色々考えた結果、自分もそこそこ汚さを身につけて、いくつかのそれらしい答えを得ることができた。
一つ、彼らにとって自分は必要とされていなかった。
例えば相手に好きな人がいた場合、かまってほしいと思う対象がその想い人であることは明白だ。むしろ自分は邪魔者だった。
一つ、彼ら自身が病みを望んでいる。
病むのはときに気持ちがいい。頑張らない理由を見つけやすいし、だれかが優しくしてくれることもある。もちろんこれは大分性格の悪い見方だ。そうでも思わないとやっていられなかった汚い自分のわがままだ。
なんにせよ、たかが「友人」の立場である自分が、温かく心地良い子宮のような病みから引きずり出してくるなど、相手からしてみれば迷惑でしかなかったのだろうと、少し歳をとってから考えると逆に申し訳なくなった。
しかし、神様になりたい症候群はおさまらない。
次に考えたのは、本当に自分を必要としてくれる人を探すことだった。
病みを嫌い、抜け出したいと思っている人。
この頃には自分もそれなりに知恵がついて、心理学にも興味を持っていた。自分なりに面白いと思った知識をたくわえ、本気で悩んでいる人をある程度見分けることができるようにもなった。
だが同じ頃自分は少し疲れてきていて、惰性で人と関わっているようなものだった。少しでも平穏に暮らしたくて好きなことだけをするためのTwitterアカウントを作り、鼠さんと出会った。
鼠さんと関わるうちに、今までの自分の行動が恥ずかしくなった。
自分はしょせん人間だ。たった二本の細い腕と、キャベツ半分くらいの脳みそしかない。
多分、人生で関わり、影響し合える相手には限りがある。それは自分も、病んだ人も同じだ。
自分は鼠さんに恋をして、一生この人と関わりたいと感じた。それならば、ふらふらと他人のことを考えている暇はないと思った。
そうすることで、それまでの自分をより客観的に見ることができた。
人の病みに触れる責任は重い。
病みに向き合うのは体力がいるし、本当に病んでしまった人の多くは、病みの原因に蓋をすることも多いからだ。
中途半端な、覚悟もない他人がやすやすと踏み込んでいい領域ではなかった。
自分はそれまでの自分を恥じたが、同時に自分が本当に助けたいと思った相手は、たとえ相手に嫌われても助けたいと思うようにもなった。
鼠さんと、自分が大事に思う友人たちだ。
焦点を絞ると覚悟も堅くなる。もう「だれかの神様になりたい」なんて言うことはない。
神様なんて大した存在じゃなくていいから、あなたたちのささやかな救いでありたい。